『ガッジョ・ディーロ』--[☆☆★]-

2001/09/14(Fri) 11:49 に書いた記事を2005年8月23日Yahoo!版にて加筆訂正

ずっと『ガッディ・ジョーロ』と思ってたよ・・・『ガッジョ・ディーロ』だったとは。。。。(笑)

ガッジョ・ディーロ [DVD]

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ベンゴ [DVD]

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1997年 イタリア映画
日本公開2001年7月
(渋谷シアターフォーラム)
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 『ラッチョ・ドローム』の続編です。
といってもこちらは音楽映画ではなくて、
大筋は恋愛映画。
 けどこれも考えるともっと深い。

 ガッジョ・ディーロとは、ロマ語で「よそ者」のこと。

 フランス人が父の形見のロマ音楽のテープ片手に、
ロマ語もできないのにそのロマ歌手を捜して、
ロマの村に行き、
そこで「よそ者」扱いを受けながら、
酔っぱらいのジイサン(バイオリン弾き)と一緒に飲んだくれたのをキッカケに
だんだん溶け込み、
唯一フランス語を話せる女(踊り子でバツイチの尻軽女らしい設定)と恋愛に陥る。

 恋愛の部分は、文化を超えて理解し合えてハッピーエンド、
なんだけど、その裏に、
バイオリン弾きのジイサンの息子がツッパリで冤罪で捕まったり、迫害されたりしている。
 でもって、仕返しに行っちゃって、
逆に村中に悲劇の大迫害が起きる、
そういう映画な訳です。
 つまり、
ロマにとってフランス人青年が「よそ者」で
東欧人にとってロマが「よそ者」で、
迫害される側が迫害してたり、
そのあたりは堂々巡りだと。

 でもって、戦いでは解決されないけど愛なら解決できる、そりゃそうだ、って映画です
けど。。。
 でまあそれもメッセージではあると思うけど。

 単純に迫害されている側が準備も作戦も無くて
ただ単に暴走してツッパれば悲劇となるのは当然で、
見てて「愚かすぎる・・・」って感想がひとつ。
「闘うのならチャンとやれよ」って
武闘派の俺としては思います。

 でもってそれよりは前作で感じてた悩みの答えがもうひとつ。

 結局、迫害というか「よそ者」排除の論理というのはどういう集団も持っている訳で、
ロマとて例外では無い。
 前作でロマに心底肩入れできなかった自分の中の引っ掛かりがこの映画の中で明確に示されてる。
(そりゃ3部作の1と2ですから)

 誰とでも仲良くするけど自分を失わない、
っていうのが理想だと思うけど、それが難しい
というか面倒なんだろうな、人間は、
って思います。

 頭では「いちいち関わってたら面倒」で、
「自分の世界を大事にしたい」のだとは理解できる。
 けどこれは、相手を凄く傷付けてる。

「あぁ、俺もやってたなぁ」
かといって、そう言う風に反省したとてナカナカ改まらない気もする。
 ただもう少し配慮しようかと。
この映画以前から故あってそんな自覚のあるところに見た映画だったのでアレコレ考えさせられました。

 人は易きに流れる、とは古来よく言われることだけど、
俺は面倒な人間なので、
ずっと、
「しょーがないってセリフは嫌い」
ラクしたい、ズルしたいは認めない」
「中途半端は嫌い」
「嘘・秘密・ゴマカシとは闘う」
なんてスタイルで生きていたいと思ってる訳です。
 それでも安易さの呪縛から逃れることはかなり難しいなと思ってしまう。

でも・・・

 壁を作ることの冷酷さは考えた方がいいと思う。
そう今戦争が起きそうだからこそ。
根っこは同じだと思うから。

http://blogs.yahoo.co.jp/ruminn_master/9942646.html